TOKYO SOBA 東京のおそばやさん

SOBA Chie-bukuroそばの知恵袋

そばとうどんの始まり

そば店の発祥は江戸時代の初期頃、うどんは室町時代にはすでに今と同じ製法で作られていたようです。起源は明かではありませんが、うどんの歴史はそばよりも古く、江戸時代初期の東海道をはじめとする各街道筋の茶屋でも、うどん・そうめんが主流でした。
そばが主流になり始めたとされるのは、安永の頃(1772〜81)。江戸の夜鷹そば、上方の夜鳴きうどんもこの頃に登場。関東と関西の麺の好みの違いも、この頃から始まるのかもしれません。

食べる健康、そばパワー!

そばは、手軽においしく食べられるもっとも身近な健康食です。
もりそば1人前に含まれるたんばく質は牛乳にほぼ匹敵。植物性たんばく質のなかでもとても良質な必須アミノ酸を多く含んでいます。
またビタミンB郡の宝庫で、日本人に不足しがちなB1・B2の含有量は米や小麦粉の約2倍。食物繊維も白米の2・5倍。さらに、血液をサラサラにし、高血圧、動脈硬化などを予防するルチンも含まれています。ルチンは水に 溶け出す性質があるので、ゆで汁が重要。食後のそば湯をおすすめします。

なぜ、大晦日にはそば?

年越しそばは、「歳取りそば」「大年そば」「大晦日(おおつごもり)そば」とも呼ばれ、江戸時代中期頃にはすでに歳末の習わしとされていたようです。由来には、細く長く家運・寿命を伸ばすという説や、切れやすいので1年の苦労や厄災を切り捨てるという説、金銀細工師が飛び散った金銀の粉をかき集めるのにそば粉を使っていたことから、金を集めるという縁起を担ぐという説など、他にもいろいろな説があります。

かけ・もり・ざるの始まり

そばとは、もともとは汁につけて食べるものでしたが、元禄(1688〜1704)の頃に、そばに汁をかけて食べる「ぶっかけそば」が広まり、それが「ぶっかけ」となり、寛政(1789〜1801)の頃には「かけ」となりました。そして、汁につけて食べるそばは「もり」と呼ばれるようになりました。「ざる」は、江戸中期にある店がもりを竹ざるに盛って「ざる」と称して売り出したのが始まりといわれ、今のようにもみ海苔をかけるようになったのは明治以降といわれています。

屋号に「庵」が多いのはなぜ?

江戸時代中期、江戸浅草芝崎町に一心山極楽寺称往院という念仏道場があり、その院内に道光庵という支院がありました。そこの庵主が信州生まれのそば好きで、その上そば作りの名人。檀家にそばをふるまううちにそのうまさが評判になりました。そこで道光庵にあやかろうと、屋号に「庵」をつけるのが流行したということです。残念ながら道光庵は、寺としてのけじめがつかないと門前にそば禁断の石碑が建てられ3代で打ち切られました。

そばの初物は「夏そば」

「夏そば」とは、そばの品種名ではなく、夏に収穫されるそばのこと。一般的には秋に収穫される「秋そば」を「新そば」と呼びますが、実はそばの初物は、それよりも前の夏そばというわけです。夏そばの収穫は、九州あたりでは6月中旬頃から始まり、北海道でも8月中旬頃には終え、まさに夏の盛りに出回ります。収穫したてのそばで旧盆の振る舞いができるようにと、日数を逆算して種を播いたもの。最近では夏そばの栽培はあまり多くないようです。

「おかめそば」の由来は

発祥の地は、幕末の頃、江戸にあったそば店「太田庵」。
おかめの面に似せて具を並べ「おかめ」としたのが始まりです。当時は、蝶型に結んだ湯葉を髪あるいは両目に、松茸の薄切りか三つ葉を鼻に、ふくらんだ両頬には2枚のかまぼこを見立て、蓋付きの丼に盛り付け、開けたときにおかめが出てくるという、江戸らしい酒落っ気が粋なそばでした。またおかめはお多福とも呼ばれ縁起が良いため、かつては酉の市などでも好まれていました。

「南蛮」ってなに?

室町時代末期から江戸時代にかけて、インドシナをはじめとする南海諸国を南蛮と呼び、そこから来る人や物も南蛮と呼んでいました。そして南蛮人はネギを好んでよく食べていたことから、ネギの入った料理も南蛮と呼ぶようになったといわれています。つまり、鴨南蛮の南蛮とはネギのこと。ちなみに、鴨南蛮を最初に始めたのは、江戸馬喰町の「笹屋」。カレー南蛮が最初に売り出されたのは、明治42年、大阪の「東京そば」というそば屋だそうです。

秋は「新そば」

そばの初物は夏に収穫される「夏そば」ですが、いわゆる「新そば」と言われるのは秋に穫れる「秋そば」のこと。夏そばに比べて色・味・香りに優れているとして、昔からそば通に好まれ、あえて「秋新」と呼んでその素晴らしさを広めたということです。
秋そばの収穫は、北海道が9月中旬頃で一番早く、九州では11月中旬頃とかなり遅く、関東あたりでは10月頃から一般に出回るようになります。

討ち入りそば

赤穂浪士47名が吉良上野介義央の屋敷に討ち入ったのが、元禄15年12月15日未明。
実はその前の夜に、そば屋桶屋十兵衛、またはうどん屋久兵衛の2階に義士が勢揃いし、縁起をかついで「手打ち」そばやうどんを食べたといわれています。
あくまでも巷説ですが、これにちなみ、毎年12月14日には、東京品川の泉岳寺や京都・山科の大石神社など、義士縁の地では義士祭が催され、そばが振舞われています。

「きつね」と「たぬき」

「きつね」というと、今では大阪の「きつねうどん」が一般的なようですが、油揚げを種に使うそばは、文献によれば大阪よりも江戸の方が古いようです。ただし、油揚げを種にしたそばのことを「きつね」と呼ぶのは江戸・東京で、大阪ではきつねそばのことを「たぬき」、京都ではきつねのあんかけを「たぬき」と呼びます。
東京でいう「たぬき」は、天ぷらの揚げ玉を散らしたそばのこと。揚げ玉とネギ以外には種らしきものがないので”たねぬき”からたぬきになったとの説もあります。

品書きのはじまり

江戸時代初期のそば屋には、そば切りを汁につけて食べるいわゆる「もり」しかありませんでした。それをもっと手軽に食べやすくしたのが、汁をかけた「かけ」で、寛政の頃から「もり」と「かけ」が登場したようです。この「かけ」にいろいろな具をのせたのが加薬そば。幕末頃の記録に、あられ、天ぷら、玉子とじ、鴨南蛮など、そば屋の品書きが記されているので、そばの品書きは江戸時代の頃に確立されたとみられています。

なぜ?引っ越しそば

引っ越し先でのあいさつにそばを配るという「引っ越しそば」の風習は、江戸時代中期から江戸を中心に行なわれ、向こう三軒両隣りにそばを配るのが礼儀とされていました。隣近所へは2つずつ、大家、管理人には5つというのが決まりだったとか。
その理由は、「おそばに末永く」あるいは「細く永くお付き合いをよろしく」といった江戸っ子の酒落心ともいわれますが、当時はそばがいちばん手軽で安上がりだったからともいわれています。

大入袋はそば代

昔、芝居が大入満員になったときには、興行主から関係者一同に盛りそば2つずつが振舞われていました。それを「大入そば」と言い、かなり古い時代から行なわれていた慣例のようです。
多くの場合は、芝居小屋付近のそば屋の切手(そばの食券)が配られていましたが、やがて現在のように大入の2文字を刷ったいわゆる「大入袋」に現金を入れて渡すようになりました。つまり元をたどれば、大入袋はそば代として配られたものなのです。

「もり」と「せいろ」

「せいろ」とはすなわち「蒸籠」、饅頭やおこわなどを蒸す器のことで、江戸時代初期にはそば切りを茄でずにこの蒸籠で蒸して出す”蒸し切りそば”が流行ったことがありました。当時のそばは、つなぎとして小麦粉を使わない生粉打ちだったため茄でると切れやすく、蒸す製法が考案されたとの説もありますが、定かではありません。現在、もりそばやざるそばを蒸籠に盛り付けて出すのは、この時代の名残といわれています。

「そうめん」と「ひやむぎ」

どちらも小麦粉を食塩水でこねたものですが、本来、「そうめん」は油を塗りながら手で細く長く延ばして作る”手延べ麺”、「ひやむぎ」は麺棒で薄く打ち延ばしてから包丁で細く切る”手打ち麺″でした。ところが、明治時代に製麺機が使われるようになってからは、手延べのひやむぎなども登場し、作り方の違いで区別するのは難しくなってきました。
現在その違いは、規格上から麺の太さで区別されています。

薬味の御三家

薬味とはもともと、毒消しの”薬”と、風味や食欲を増すうまみの”味”の2つの意味。
そばの薬味の御三家といえば、「刻みネギ」「七味唐辛子」、そして江戸時代には大根のおろし汁でそばを食べていたことから「大根おろし」とされています。
冷たいそばには「わさび」も欠かせない薬味とされていますが、高価だったため、戦後に粉わさびが普及するまで一般にはあまり使われなかったようです。

振る舞いの「わんこそば」

「わんこそば」は、盛岡・花巻を中心とする地方の習わしで、祝儀・不祝儀を問わず客人に振る舞われる伝統的な郷土そば。椀があくとすぐに次のそばを放り込んでいく、これを「おてばち」といい、この地方ではいちばん手厚いおもてなしの礼儀だったのです。浅い平椀のことを「わんこ」ということから、わんこそばと呼ばれるようになりました。

うまいそばの「三たて」

「三たて」とは、うまいそばの三条件として使われてきた言葉で、「挽きたて・打ちたて・茄でたて」のこと。「挽きたて」は製粉したてのことで、現在では自家製粉しなければ挽きたてを使うのは難しいですが、明治から大正の頃には粉挽き商売の「抜き屋」があり、挽きたての粉を使うことができました。いずれもそばは劣化が早いことを意味し、うまいそばは手際よく作って出さなければならないという戒めになっているようです。

「そば」とは

「生そば(きそば)」とは本来、つなぎを加えずにそば粉だけで打った「生粉打ち(きこうち)」のそばのこと。江戸前期においてそばといえばすべて生そばでしたが、中期以降に小麦粉をつなぎとして使うようになり、割り粉を加えた「二八そば」が、より滑らかでつるつるとのどごしがよく、たちまち主流となりました。現在では「生そば」と書かれていても、一般的に生粉打ちのそばを意味することはありません。

平打ちうどん「きしめん」

名古屋名物として知られる「きしめん」の由来は、雉の肉を入れた「きじめん」からきたのではないか、あるいは紀州出身者が名古屋で作った「紀州めん」からではと諸説あり、いつ頃から平打ちうどん「きしめん」が食べられるようになったのかも定かではありません。
江戸時代初期の有名な茶屋の麺類を記した文献に、三河の芋川(愛知県刈谷市)名物「ひらうどん」が挙げられており、形状からしてきしめんに近い麺であったと考えられます。